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新聞配達から開かれた、
母の第二の人生

まだ小学生だったころ、家に帰ると母がいつも迎えてくれていた。私の地元は北海道の田舎町で、近所にはスーパーマーケットが1~2軒と、ファストフードのチェーン店がぽつぽつあるくらい。当時、友達と呼べるような子があまりいなかった私にとって、家に帰ればいつも母がいてくれるのは安心そのものだった。

母は私が小学5年生になるまで、外に働きに行くことをしていなかった。かと言って自宅でぼんやりしていたわけではなく、家事や子供たちの習い事の送迎、PTAの役員など、忙しく働いていた。金銭の授受に関わらず、「人」のために「動」くことはすべて「働く」ことなのだと、いつか友人に教えてもらったことがあるけれど、そのように考えるなら、母は紛れもなく働き者だった。

“働き者”の母は、地元の高校を出た後すぐに眼科の受付として働き始めた。本当は専門学校や大学に行きたかったのだと母は言っていた。しかし、家庭の事情で断念せざるを得なかった。勤め先の眼科はアットホームでとても居心地の良い職場だったが、知人の紹介もあり、電機メーカーに転職することになる。

そこで受付をしているとき、取引先の営業で来ていた父と出会って結婚。入社して1年ほどで寿退社することになった。私の地元では今でも、女性の寿退社を花形だと思っている人が少なくないけれど、当時はなおさら華やかで、かつ“当たり前”なキャリアの積み方だったに違いない。母は結婚して私を産み、さらに3人の子どもを産んで、育てて、家事をした。母は本当によく働いてくれた。

そんな母がある日、「お母さん、外に働きに出ていいかな?」と私に聞いてきたのを覚えている。8歳の誕生日を迎えたばかりの私は「いいよ! 働きなよ!」と言った。うれしそうにしてくれるかなと思ったら、「そうなの? そうかぁ、前は働きに行かないで、って言ってたんだけど、ののかも大きくなったんだね」と言った。その表情は何かをグッと堪えたようで、とても寂しそうに見えた。

当時の母は33歳。28歳になった今ならわかる。彼女はきっと、家庭の外に居場所が欲しかったのだ。当時の私でさえ、母は母というだけでなく、ひとりの人としての人生もあるのだということをぼんやりと感じたのを覚えている。母が遠くに離れていってしまうような、寂しい気持ちがあったけれど、できる限りはもう何も我慢してほしくないなと思った。

けれど、それから数年の間は、母はどこかに勤めることはせず、自営業をしている父の配達や伝票整理を手伝っていた。きっと家族のことを気遣っていたのだろう。「外で仕事してもいいかな?」と聞いてきたときの寂しそうな母の表情を思い起こしては心がチクリと痛んだ。

そして、私が高校生になったときのことだ。母は電機メーカーを寿退社して、約15年ぶりに外で働き始めることになった。彼女が選んだ仕事は、新聞配達。14時くらいから準備を始め、17時ごろまで決まったルートを回り、各家に夕刊を届ける。数多ある仕事の中から新聞配達を選んだ理由は、ジムに行かなくても身体を動かせるし、その時間帯なら私や妹たちの習い事の送迎にも間に合うから、ということだった。家族想いの、母らしい理由だと思った。

新聞配達の勤務初日、私はとても緊張していた。母が心なしかいつもより楽しそうに見えたからだ。あんなに楽しそうにしているけれど、もし職場で嫌なことがあったらより一層寂しくなってしまうだろう。そうかと言って、仕事があまりに楽しかったとしたら、母が私たちに対する関心を失ってしまうんじゃないかと思った。怖かった。

初日の新聞配達から帰ってきた母はとても晴れやかな顔をして、意気揚々と夜ご飯の支度を始めた。私は心臓をプルプルと震わせて今にもはち切れそうな思いで、しかしできるだけ平静を装って、「今日、新聞配達どうだった?」と聞いた。すると、母は「すごくよかった!  身体も動かせるからストレス発散になるし、家に帰ってからも料理や掃除を頑張れそう!」と言いながら、カレー用のじゃがいもを洗っていた。いつも明るい母だったけれど、こんな彼女を見るのは初めてで、皮が一枚つるりと剥けた、同じ顔した他人に見えた。

それからほぼ毎日、母は新聞配達に出かけてはすっきりした顔で帰ってきて、私は徐々に“外で働いている母”に興味が湧き始めた。母がこんなにいきいきとしているのだ。きっと新聞配達とは、それはそれは楽しい仕事に違いないと思った。

ある雨の日。晴れた日よりも大変だろうからと、私は母の手伝いを買って出た。長靴を履いて、カッパを着て、車に乗り込み、営業所に新聞を受け取りに行く。営業所に着くと、母は「ちょっと待ってて」と言って車から降り、建物の中へ入っていった。しばらくして大きな新聞の束を抱えて戻ってきた母の顔を見て、私はハッとした。おそらく営業所の人に向けられた彼女の笑顔は、家族へのそれでも、母の友達へのそれでもなく、仕事仲間へのそれだった。何か特別に面白い話をしたわけでもないだろうに、すこんと抜けるような笑みを湛えて、母は車に戻ってきた。母は毎日ここで酸素を補給しているのだと思った。私はようやく、母が外に働きに出てくれたことについて、心の底から良かったと思えたのだった。

ちなみに、その日の私の働きぶりは散々なもので、敷地内にいた犬に気付かず、長靴の上から足をガブリと噛まれて怖くなり、それからずうっと車に待機していた。申し訳なさそうに小さくなる私を母は「いいよいいよ」と言って笑い飛ばし、数百部の新聞を配り終えた。車を運転し、雨の中を小走りで配達する母はカッコよくて、いつも以上に頼もしく見えた。

母は2年ほど新聞配達を続け、「もっと子どもに関わる仕事がしたい」と小学校の学習支援員として各クラスの補佐をする仕事に転職した。専業主婦だった母が突然働きに出たのもびっくりしたけれど、何か主体的な理由をもって転職したのにも驚いた。母は学習支援員を7年間務めた。新聞配達のときのように、働く姿を直接見たことはなかったけれど、「4児の母としての視点と、学校に属する人間としての視点を活かして保護者と先生の間に立ち、架け橋的な役割を担ってくれていた」と当時の母の同僚が私に教えてくれた。

学習支援員として働くなかで、自閉症やアスペルガー症候群などの発達障害に興味関心を持った母は勉強をして資格を取り、現在はフリーランスのカウンセラーとして、多いときでは1カ月に20名以上の個人カウンセリングと10件以上もの講演を行っている。

「結婚して子どもを産んで外に働きに出始めてから、本当の人生が始まった気がする」

そう、母は言う。確かにそうだ。最初に就いた仕事は家庭の事情で選んだし、その次は家族のために一生懸命“働き”をやってきた。母がこうして、自分の意思で人生を切り開くきっかけになったのは、新聞配達を通じて社会に接続できたことが大きいのではないだろうか。

仕事とは、“人”のために“動”くことであるということは友人から教わり、労働に対する対価をもらうことだということは経験上知っている。そして、仕事とは、社会と接続し、社会の中に自分の居場所をつくっていく行為である。母は身をもってこれを証明し、私はそのことをずっと心に留めている。