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寄り道をしながら、本当にやりたいことを
見つけた恋人

「どうしてパティシエになろうと思ったの?」

私が尋ねると、同い年の彼は照れたように少し口ごもり、「高校生のとき、彼女にホワイトデーのお返しを手づくりしたのが楽しかったんよね」と答えた。

なんてかわいい、すてきな理由。その後、夢をちゃんと叶えた彼はハードながらも充実した毎日を送っていた。最初はなんとなく一緒にいるだけだった私たちは次第に惹かれ合って、恋人同士になった。もうずいぶん昔のように感じていたけれど、まだ1年も経たない。昨年の春のことだ。

高校卒業後、製菓専門学校で1年間、菓子づくりの技術を学んで上京した彼は都内有数のパティスリーに正社員として入社した。現場では、専門学校で学んだ知識はほとんど役に立たない。仕事量は多く、指導も厳しく、時には理不尽だと思うこともあったそうだ。

新人の彼は誰よりも朝早く職場へ行き、自主練習をしたいからと誰よりも夜遅くまで残った。自宅に帰るのは着替えるためだけ、休みもろくに取らなかった。そんな多忙な日々は2年間続き、十数人いた同期や後輩はみんな辞めていった。

そして、ひとり踏ん張り続けていた彼にも、とうとう限界が訪れる。

「もう会社にいけない」

身体も心もしんどくなって、退職を決めた。夢が破れたと感じた。

彼は心身虚弱な私とは正反対の、とってもタフな人だ。体調を崩すなんてところは見たことがないし、よく食べ、よく動き、よく眠る。さっぱりしていてポジティブで、クヨクヨ考え込むこともない。だから、かつての彼にそんなに大きな挫折があったことを知って、私はとても驚いたし、自分のことのように胸が痛くなった。当の本人は、いつものように笑っていたけれど。

でも、そんな過去があったからこそ、彼は悩むために生きているような私のことを受け入れてくれたのかもしれないと、今になって気づく。

彼が選んだ次の職は、寿司屋の宅配アルバイト。とりあえず食べていくために探した仕事だったという。バイクで走るのは気持ちがいいし、好きなときにシフトを入れられる。時給もいい。ラクな仕事だと感じていた。

ただ、いつまでもこの仕事をしているわけにはいかないという焦りはあったそうだ。パティシエへの夢はまだ抱き続けていたし、いずれ戻ろうとも思っていた。でも、踏ん切りがつかない。自分と向き合い続ける日々が過ぎる。

複雑な心境で働きながらも、初めて知ることもまたたくさんあった。寿司屋は同じ飲食業だけどパティスリーとは全然違う。仕事は新鮮だったし、勉強にもなる。寿司屋の宅配というだけで、普段は入れないようなところへも入っていけることも愉快だった。大企業の高層ビル、映画の撮影スタジオ、そびえ立つ高級マンション……。早朝から深夜まで、外界と隔離されたキッチンに籠って働き続けることが当たり前になっていた彼には、初めて見る世界だったのだろう。

一緒に働く仲間たちとの出会いもまた特別だった。俳優やジャズドラマーの夢を追いながらアルバイトをしている人たち。そんな同僚との触れ合いが、挫折によって傷ついていた彼の心をほぐしていった。彼は懐かしそうに、私に昔話をしてくれる。

「オレはそれまで、パティシエになるための道をひたすら走り続けてきたから、会社を辞めたときに『もう終わりや』と思った。でも一緒に働くその人らを間近に見てて、寄り道することも悪くないな、視野を広げることも必要なんじゃないかな、って思えるようになったんよね」

そして2年が経った頃、決心がついた。

「今のオレならきっとやれる」

寿司屋のアルバイトと並行して、もう一度夢を追いかける決心を固めた。

「そりゃあパティシエの仕事に戻るのは怖かったよ」と、彼はしみじみ振り返る。だからシフトの自由が利いて、かつ会社に縛られないアルバイトという雇用形態を選んだ。

でも一方で、彼には自負もあった。普通のパティシエが知らないような世界を見てきたこと。さまざまな人たちと出会ってきたこと。そして、挫折しても諦めなかったこと。寿司屋での2年間の経験が、一人の人間として成長してきた自信になっていたのだ。

大好きなパティスリーでの仕事には、やはり熱中した。自分なりの工夫や挑戦を重ね、併設のカフェでデザートづくりを任されるまでになった。お客さんから指名を受けることもあったという。

楽しかった。いつしか4年間続けた寿司屋のアルバイトを辞め、パティスリーのアルバイトに集中するようになっていた。

彼と知り合って間もないころ、私は友人たちとそのカフェへ行き、彼が目の前でつくるデセールを食べたことがある。

ロマンチックな雰囲気の中、私たちは子どものようにはしゃいだ。カウンターの向こうに立つ彼の手捌きは魔法使いみたいに鮮やかで、デセールは繊細で甘く、おいしさがとろけていった。

「おいしかったー、ごちそうさま!」

手を振る私たちを、彼はコック帽に白衣姿で見送ってくれた。そのとき初めて、彼の本当の笑顔を見たと思う。私はあの夜を、たぶんずっと忘れない。

それから約1年後、彼は高級ホテルの製菓部門に転職した。視野を広げるために、新しい経験が必要だったと彼は言う。菓子のつくり方、道具の使い方、仕事のやり方は、店によってまったく違う。技術を学ぶには何よりも、そこで働くのが一番いいと考えたのだ。

アルバイトという立場をうまく利用する彼を見て、私はちょっと感心してしまった。とはいえ仕事はなかなかハードで、朝は早いし、夜勤の日もある。腕にヤケドの跡をこしらえてくることもしょっちゅうだし、いつも汗だくで帰ってくる。そのたびに私はオロオロ、心配してしまう。

でも、彼はとにかく毎日楽しそうなのだ。時々、ひとつ数千円もするパウンドケーキを買ってきては「オレがつくったやつやで」と、誇らしげにこだわりを解説しながらご馳走してくれる。

華やかに見えて、実は化学書のように難解な洋菓子のレシピ集を夢中で何時間も読んでいる。友人の誕生日にケーキをつくって振る舞っては、みんなを喜ばせている。根っから菓子づくりが好きなのだろう。そんな彼を私は尊敬するし、心底愛おしいと思うのだ。

「オレ、京都に行くことにした。ユウさんも来る?」

冬も近づいたある日、突然そう言われたものだから、意味を図りかねた私はすっかり硬直してしまった。彼は正社員としてパティスリーに就職する決意をしていた。そして転職活動の末に内定し、配属された先が京都の店舗だったのだという。

すごいね、内定おめでとう! がんばったね。
京都には行けないけれど、きっと遊びに行くからね。
どうして勝手に決めちゃうかなあ。だけどせっかく掴んだチャンスだもんね。
私もうれしいよ、もちろん応援するよ! ……でもね、すっごく寂しいよ。

パティシエとして生きていく決意を固めたこと、まだ若い店舗の成長に関わっていけること、将来ありたい姿に近づく挑戦ができること。こんなにうれしそうに未来を語る彼に、誰が反対などできるだろう。私は泣いてしがみつきながらも祝福し、受け入れるほかなかった。残される側は、いつだって非力だ。

新天地での困難があるかもしれない。仕事だってハードな業界だ。でも私は、彼という人物をよく知っているからこそ思う。大切に恋い慕っていたからこそ願う。彼はきっと乗り越えていくだろうと。パティシエとして、いや人間として培った経験がすべて、彼の味方をするに違いないと。