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つましく暮らす友人は、
“好き”を仕事にしなかった

水筒ってダサい。

中学生の頃、急にそんなことを思い始め、母が用意した水筒を持って行かず、登校中に自動販売機で飲み物を買っていた。もちろん、麦茶はダサいから、紅茶を選んだ。

大した夢はなかったが、かっこつけて美術教育に微妙に力を入れている高校を選んで入学した。ろくに勉強せず、授業中はスマホを使って芸人のウィキペディアを読んでいた。派手で豪快に生きる人間に憧れを抱き、「漫才で天下を取ったるで!」と、芸人を目指すことにした。

それから6年が過ぎた今、仕事はライターとユーチューバー、クリエイターだ。カタカナの肩書き、かっこいいでしょう。夜から飲み始めて、昼に帰宅する。大人であることを謳歌したいのだ。お酒のために借金をする。友達より家賃が高い部屋に住んでいるのが自慢だ。

なんて間抜けな人間だろうか。いやしかし、これが私である。堅実に生きている私より、粗っぽい私の方が、自分らしくて好きだったりする。ただ、なんとなく“そう振舞っている”自分の存在が大きくなってきたようにも思える。

高校で出会ったある友達がいる。彼女は学生時代、お茶を入れた水筒を持ち歩いていた。私はゼリー入りの缶ジュースを飲んでいた。無駄や浪費を愛している私と違って、友人はつましかった。

私が「漫才で天下を取ったるで!」と奮起している間、彼女は手を真っ黒にしながら受験勉強に勤しみ、美術大学の工芸学科に合格していた。美大に進学した彼女は、陶芸のコースを選択したらしい。「なんか食器作ってよー」と、てきとうに言ってみると、「そういうのじゃないよ」と言われた。そういうのじゃないのか。

彼女は大学を卒業した後、志望していた雑貨店のクリエイティブ職に就職が決まった。陶芸を続けることも考えたらしいが、それには粘土を焼く窯が必要で、窯を使える環境はそう簡単には手に入らないらしい。会社員になってすぐに、社内研修も兼ねて、東北にある実店舗で働きはじめた。

それを聞いた私は、離れ離れになることに悲しさを覚えたが、当の本人は地元を出て、知り合いが誰もいない地に行くことにワクワクしているようだった。そんなものなのだろうか。

私は、「旅行がてら会いに行くねー」と言ったものの、タイミングが合わず、というか新幹線の手配がめんどうくさくて、結局行かないまま数年が経ち、彼女がこちらへ戻ってきた。東京に新しくできた店舗に異動となったのだ。「今度、顔出すよ!」と言ったものの、なんとなく行かないまま、退職の連絡がきた。

やっぱり、陶芸の作品を作り続けたい。

仕事は別でやりながら、自分の好きなものを作りたい。派遣のバイトをしながら、窯が使える場所を探すという。ずっと志望していた職を、こんなに潔く辞められるものなのか。でも、「もったいない」という言葉は浮かばなかった。いいじゃんと一言、返事をした。

彼女はバイトを始めた。こうした人生の決断は、誰だって不安になることだろう。でも、端から見ると、彼女はとても潔くてしたたかに見えた。

ある日、「原宿にスクイーズを買いに行こう」とメールがきた。スクイーズとは、女子小中学生の間で流行っている食品の形をしたスポンジのおもちゃで、触ると柔らかくてむにむにしている。彼女はそれにハマっているらしい。

人気のお店に行くと、200円ぐらいのスクイーズを買うか買わないかで数十分悩み、結局、吟味した1つだけを購入していた。私は、その店にあったアクセサリーを「安いから」と3つくらい衝動買いした。高校のときから変わらない友人の慎重な買い物を久しぶりに見て、笑った。

その後しばらく会わないうちに、また彼女からメールがきた。いつのまに、東海地方にある陶芸の学校に合格したそうで、またもや知り合いが誰もない土地に1人で行っていた。「夏くらいに遊びにいくね!」と送り、気がつけば冬になっていた。

昨年の大晦日の日、彼女が帰省しているというので、サイゼリヤで一緒にご飯を食べた。住んでいる部屋の写真を見せてもらうと、ガランとしたワンルームが写っていた。家具は、キャンプで使うような折りたたみの椅子と寝袋。想像を超えたミニマリズムな空間に、ある種の恐怖と同時に笑いが込み上げた。

「スクイーズはポーチに入れてある」

満足げにそう話す彼女を見ていると、やっぱり面白さのほうが大きくなってゲラゲラ笑った。学校を卒業したら、今度は静岡に引っ越して、働きながら作品を作っていくそうだ。つましさ。それが、彼女にある自由の根源に思える。

大人になり、私が派手に振舞っていたのは、「凡人からの脱却」が目的ではないか。そんなことを思った。お金を浪費することやお酒をいっぱい飲むことで、基準から外れようとしているだけかもしれない。そう考えると、私の”自然”な状態は、どこにあるのだろうか。自由は、どこにあるのだろう。

「インスタグラマーになろうと思って、インスタを始めたんだけど、諦めた」と、ふいに彼女が話した。今まであまりSNSをやってこなかったのに、なぜ? 理由を聞くと、「なんか、有名になったら試供品とかもらえるじゃん」。小さすぎる理由に、またゲラゲラ笑った。

帰宅中に、ふと彼女のインスタを検索してみた。インスタグラマーを目指していたときの投稿は削除されていたけれど、自身の作品が投稿されていた。土が焼かれて灰白色になったそれは、形や質感、あり方、その全てから彼女らしさを感じた。多くの人を驚かせるような派手なものではない。質素であり、同時に自然な形をしていた。まさにそれは、彼女の姿だった。

働くことには大なり小なり、妥協や退屈が含まれる。しかし、自由に生きていくためには、好きなことを続けるためには、それらを肯定しなければいけない。偉くなくても、お金をあまり稼いでいなくても、別にいいのだ。自然である自身を肯定することで、本当の自由がわかるのだ。

実家に帰ってシンクをのぞくと、母がパートに持って行っている水筒があった。今は、水筒のつましさがかっこよく思える。あれからずっと、私の“自然な形”について考えている。