file

父がぽっくりと死に、
母は「マダム・バタフライ」
として
第二の人生を歩み始めた

「パパ、もう長くないって」

その日、私が中学校から帰ると、西日さす食卓の中心で母が静かにそう告げた。

いつも彼女が身に着けているエプロンの四つ角は、綺麗に折り畳まれ、小脇にちょこんと置いてある。

私は、そっけなく「長く生きたほうだね」と言い返すことしかできなかった。

音楽大学卒業後、就職せず、23歳という若さで歯科医の父と結婚した母。

経済的に余裕があった父との結婚は周囲から祝福され、順風満帆な主婦生活を送っていた。

娘の授業参観には薄色の綺麗なマニキュアを塗り、上質なコートを着て参戦する美しい母親だった。「THE・女」って感じの匂いを、私は母からプンプン感じとっていた。

時々家族でピアノを囲み、母の奏でる音に合わせて歌い、4人の娘たちはレースの付いたブラウスを着てマカロンを食べる。

まるでイプセンの『人形の家』のような家庭だったが、その中に血の通ったひとときもあって、家族はぼんやりと仲良く暮らしていた。

ところが、幸せは長くは続かない。

あるとき父が脳出血で倒れ、自宅で営んでいた医院は閉院せざるを得ない状態に陥った。そして、かつては富の象徴のようにぷっくりと太っていた父は30kg台まで痩せこけ、おむつ無しではいられない体になった。

父のそんな姿を見て、母は一度だけ弱音を吐いた。

「あたし、車椅子の押し方もわかんないのよ?」

そして、母の爪先からマニキュアが見当たらなくなって数年後、父は、ぽっくりと死んでしまった。母は48歳、私は15歳だった。

残された4人の子どもとの生活を守るため、母は突飛な行動に出た。在宅アルバイトで「電話お悩み相談」の従業員として働き始めたのだ。

時給は1,200円ほど。主な業務は、さまざまな恋愛に悩む若い女性の話を電話口でひたすら聞いてあげるというもの。

昔からちょっとした占いが趣味だった母は、ひと通りカードのリーディングもできた。迷える恋愛で心にモヤモヤを抱えている女性に対し、ひたすら聞き役に徹する母。

その職について彼女は、「4人の娘それぞれから恋愛相談を聞いておいて、本当に良かったわよ」と、瞳を輝かせながら没頭していった。

オペラ好きの母は、蝶々夫人から由来して、「マダム・バタフライ」という名で第二の人生を歩むようになる。

真夜中、閉院した自宅医院の受付机に電話線を引き、相談者の言葉に淡々と耳を傾ける母。さまざまな女性の悩みに、あらゆる角度からアドバイスをしていった。

その姿は、父の半歩うしろに下がり生活していた頃とは違う、女性としての覚悟に満ち溢れていた。次第に人気が出始め、たちまちリピーターが増えていった。

その頃から母は、幾度となく娘たちにこう言った。

「貴方たちが誰かと結婚する時は、六畳一間から慎ましい夫婦生活を始めてね」

自分は歯科医と結婚し、周囲から祝福されてきた。夫のことを愛し、家族中心の生活を送り、必死で生きてきたつもりだった。

ところが人生の途中で夫に先立たれ、家業は店仕舞いし、子どもは残され、生活費の心配がふりかかるという、「ありがたくない大逆転」が勃発した。そこで初めて緊急事態に遭遇し、「自分と社会との断絶」を思い知ったのだという。

母にしてみれば、アルバイトを探す行為は必死で見つけた突破口だったのだろう。

父が遺した我が家を売りに出した日、母は「これからは、ママがパパの代わりになって頑張るからね」と娘たちに言ったが、その手はわずかに震えていた。

家族で小さなアパートに越した頃、マダム・バタフライの快進撃は始まる。毎晩ひっきりなしにかかってくる電話相談に、ひたすら応答することになるのだ。

「相談はどれも真剣で、中途半端な気持ちでは答えられない」

そう言いながら、誰かに頼られることに喜びを見出し、アドバイスをする母の姿は頼もしかった。

次第に母は日中、学童保育でも働くようになり、ダブルワークを始めた。50歳目前で初めて履歴書を書く姿はたどたどしかったが、そこに悲壮感はない。

「この歳でこんなこと言うのは恥ずかしいけど、働くって楽しいのね」と、嬉しそうな顔をして娘たちに話すことも増えた。

4人の娘を育てた経験は学童保育でも重宝され、絵本の読み聞かせを行うと、子どもたちの長蛇の列ができるようになったという。

マダム・バタフライの相談業で培った「相手を安心させる発声」を生かし、母は子ども相手に紙芝居を読みまくったり、ピアノを弾いたりしたそうだ。

働きに出たことで、若さを取り戻していく母。その姿は、紆余曲折を経て人生に輝きを取り戻しているようにも見えた。

「今日、学童でピアノを弾いていたら、普段おとなしい子があたしの膝の上に急に座ってきたの。『ピアノを教えてくれ』って。小さな手でね、可愛かった」

嬉しそうにそう話す姿を見て私は、もしかしたら父が生きていた時から、母には心のどこかで「働きたい」という願望があり、それに気がついていないだけだったのかな、と、ふと思った。

もしくは「火事場の馬鹿力」ではあるまいが、切迫した状況に置かれたことで、自分自身を肯定するための意識が働いたのか。

その時の母の気持ちは、誰にもわからない。

だが、綺麗な格好をして授業参観に来ていた頃の母より、今のクシャクシャな顔をして笑う母のほうが私は好きだな、と密かに思った。

もちろん、金銭面の心配は尽きない。母の学童保育や電話相談員の給料に加え、娘たちも当然家計を支えた。

四女である私は16歳の頃から芸能事務所に所属し、女優業を始めることにした。そこで月々固定給を貰い、母のアルバイト料と掛け合わせ自分の学費にあてた。

私も、若くして生活費を稼ぐということに悲壮感はなかった。なぜなら、すでに母を見て「自分を生かせるフィールドで働くことは人生を充実させることである」と、10代なりに悟ったからである。

ほかの姉妹もそれぞれに働き口を見つけ、我が家の女たちは小さなアパートで慎ましく、明るく、暮らした。

いつしか私が芸能活動で知り合ったタレント仲間の恋愛相談も、母は聞くようになる。

時には人気俳優との恋に悩む友人が、母へ恋愛相談に駆け込むこともあった。私が「絶対秘密にしてよ」と忠告しても、そもそも彼らがどれほど著名なのか母が知らないからこそ、情報漏えいの心配が一切ないという天然さも発揮した。

こうして昼は学童保育で子どもの話し相手を、夜は電話で女性たちの話を聞く生活が定着し、いつしか彼女は「話聞きのプロ」になっていた。

それから10年以上の歳月が経ち、娘たちはそれぞれ自立した。

母は、ある時期から祖父母の介護に関わるようになり、仕事は一時休職せざるを得ない状態になった。

ところが、一度「働く経験」を経た母は、以前にも増してパワーアップしている。

父が病に倒れた頃は車椅子ひとつ押すことに戸惑っていたが、今度は祖父母をさまざまなところへ連れ出し、積極的に日常の世話をするようになった。祖父母は数年前に立て続けに亡くなったが、母の顔はどこか晴れやかだった。

「人には、誰にでも大切な人を見送る宿命がある。あたしの場合は、自分よりも先に夫と両親を見送る宿命だったみたい」

悟ったようにそう呟く彼女は、目下、我らが四姉妹の長女が産んだ3歳の孫の世話に奔走している。「おばあちゃん」と呼ばれることを嫌がり、孫に「マダム」と呼ばせている母の、女としてのプライドは健在だ。

今日も我が家には、3歳児の声が響き渡る。

「マダム〜。一緒にお絵かきしよー!」

60歳を過ぎた母は現在、新たな学童保育へ就職することを虎視眈々と狙っている。

そう。これは48歳から働き始め、"自分自身の人生"に覚醒した女の物語である。