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職業がアイデンティティに
なっている
すべての人たちへ

友人の鈴木は、当時29歳だった。青春の終わりは、もうすぐそこまで来ていた。流れる雲は、そろそろきれぎれになり、空の全貌を見せつけようとしていた。その先には、きっと何もない。怖くて思わず鈴木は目をつぶった――。

名古屋で生まれた鈴木は、音楽好きな両親の影響で、ロックやジャズに親しんで育った。小学校のときに一番好きだったバンドはレッド・ツェッペリン。高校に進学するとレッド・ツェッペリンのコピーバンドをはじめるようになる。

レッド・ツェッペリンのように世界で活躍するには、名古屋に留まっていてはいけない。まずは東京に出なければと、大学入学を機に上京、都内の有名私立大学に入学した。すぐに軽音楽サークルに入部、バンドを結成し、キャンパスライフを謳歌した。それは、まさに青春の日々と呼ぶにふさわしいものだった。

しかし、就職活動をせず卒業後もバンドを続けたものの、冴えない日々が続いていた。鳴かず飛ばずのバンドは崩壊寸前。ライブをやってもお客はわずか数人。チケットノルマも捌けず、ライブをやればやるほど赤字になる。練習に使用するスタジオ代もバカにならない。

いつまでこんな日々が続くんだろう。いつか、こんな苦しい日々を、大きなステージで笑いながらMCする日が来るのだろうか。来ない。なぜなら鈴木はドラムだからだ。MCなど回ってこない。絶望以外の何ものでもなかった。 

そんな鈴木の心の拠りどころとなっていたのが、丸の内にある派遣バイトの職場だった。仕事内容はテレフォンアポイントメント。見ず知らずの人へ商品を売るための電話営業は、時にきつい言葉を浴びせられるハードな仕事だ。ところが、バイトとバンドを往復するだけの閉じた日々を過ごす鈴木にとって、生活範囲外の人と会話をすることは新鮮で、気晴らしになっていた。

同僚にも恵まれた。職場には、妙齢のおばちゃんが多かったが、彼女たちは鈴木のことをミュージシャンとして扱ってくれたのだ。ライブに来てくれたこともある。「売れたら、同じ職場で働いていたって自慢するんだからがんばってよ!」そんな言葉に、鈴木は引きつった笑顔を浮かべるしかなかった。正直、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。こんな売れるわけないバンドのライブを見ても時間の無駄だ。鈴木はそう思った。

しばらくしてあっさりとバンドは解散した。その後いくつかのバンドを経験するがどれも長続きしなかった。でもそんな日々のなかで楽しく人生を送ることができたのは、温かい職場のおかげだった。ここは鈴木にとって、すべての殻を外して素になれる場所だったのだ。もう音楽活動をやめて、ここでずっと働くのも悪くないな、そう思っていた。

そうして鈴木は30歳の誕生日を迎えた。青春は終わりを告げた。目をつぶったが、雲の切れ間から、鈴木の網膜に、まるで逆らえない運命のように、しっかりと太陽の光が差し込んでいた――。

大学時代の後輩からまたしてもバンドに誘われた。もうそれほどバンドに対するモチベーションはなかったが、遊び半分でスタジオに顔を出した。そして、楽曲を試奏したときに、衝撃が走った。これはいける。直感でそう確信した。

それからの展開は早かった。自主制作のCDは口コミで評判となり、4000枚が約2週間で売り切れた。ライブは回を重ねるごとに、倍々ゲームで客が増えていく。レコード会社の新人発掘担当の人間も紛れ込んでいて、何人もの業界人からも声をかけられる。

鈴木は、いったい何が起こっているのかわからなかった。いや、何かは起こっている、それが理解できないだけだった。展開が早すぎる。当然、尋常でない速さで忙しくなっていった。派遣のバイトを休むことが多くなった。

そして、鈴木は音楽活動に専念するか、派遣のテレアポと平行してバンド活動をやるかの選択を迫られることになる。

久しぶりに職場に顔を出した。出迎えてくれたのは、いつも、お菓子をくれる通称・わけさんだった。「すっかり売れちゃって。テレビで見たわよ。姪っ子に自慢しちゃったわ」そして、その言葉を皮切りに、続々とみんなが集まってきた。

「ちょっと歌ってよ!」鈴木はボーカルでもないのに歌わされるハメになった。でも素直に嬉しかった。やっぱりここは落ち着く。鈴木はそう思った。

「じつは、僕、今日限りでこの職場を辞め......」

「それ以上は言わなくてよし!」

それから2年後。鈴木のバンドは、ある大きなホールでの公演を控えていた。リハーサルのある午前中に、さっそうと自家用車で会場入りする鈴木の姿があった。夜、公演は無事終了し、打ち上げにみなで行くのかと思いきや、鈴木の姿がない。どこに行ったのかと探してみると、車でさっそうと裏口から出ていく姿が目撃された。鈴木は丸の内に向かって自動車を走らせていた。その後、鈴木のバンドがどんなバンド人生をたどったのかは割愛する。

みんなが知らないふりをしているのだけど、当然のように、青春が終わってからのほうが、人生は長い。「その後」の人生をどう充実させていくか。それがこれからは大事になるんだと思う。

心地いい居場所はいくつあっても十分ということはない。鈴木がバンドだけに寄りかからず、テレアポの仕事を続ける理由はそこにある。それなりに名の知れたバンドに所属しているが、バンドマンであることに固執している様子はまったく見られなかった。「バンドを辞めて小料理屋でもやろっかな」とさえ言い出しているのだ。鈴木は仕事を"居心地のよさ"で選んでいるようだった。

一方で僕は、ライターになりたいと必死にもがいてきた。自分が何者かを言い表すための、わかりやすい名前が欲しかったのだ。鈴木の居心地のよさを優先する働き方は、僕のなかに呪いのようにあった、職業がアイデンティティという呪縛を取り払ってくれた気がする。そう、鈴木が教えてくれた一番大切なことは、それだ。

そんな、ほんの少しの教訓めいた寓話のような話。