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大企業の人事を辞めて
「歩くマッチングアプリ」
になった友人の話

下北沢に引っ越したのは友人たちの家が近いからだった。この記事で紹介する彼の家は特に近くて、筆者の家から徒歩3分かからない距離にある。

ライター、編集者、デザイナー、Webディレクター、フォトグラファー、ミュージシャン、コピーライターなど、仕事柄接点のある業種の友人の多くは、下北沢・三軒茶屋を中心にそう大きくない円の中に住んでいる。仕事帰り、だいたい20時くらいから下北沢で飲みはじめると、ばらばらと人が集まりだして、盛り上がって26時まで飲んでもほとんどの人は歩いて帰れる。

いつ行っても団体席に座れる、人気店とは呼べないある居酒屋の一番奥のテーブルが我々の定位置だ。日によってメンツが入れ替わりながら、だいたい誰がいても同じような他愛ない話をして大半の時間を過ごす。それでも時折お互いの仕事の実績に密かな刺激を受け合ったり、その飲み会の場にいる人同士で組む仕事が決まったりする。

たぶんこれはある種、夢のある生活なんだろう。自分がキャンパスにいた頃から今に至るまで何人も出会ってきた、「将来は何かクリエイティブな仕事をしたい」と嘯くような大学生にとっては特に。

でも実際のところ、自分も友人たちもそれぞれにシビアな課題を日々ひとつひとつクリアして、クリアできないときは何かしら代替案を用意して、それすらもできない場合は耐え忍んで、時代をしたたかにサバイブしている。仕事柄つねに勉強を続ける必要があったり、フリーランスゆえに収入に波があったり、プロジェクトに大きな既得権益が立ちはだかったり、そういった苦難を日々スキルと実績と愛嬌と運とその他諸々で切り抜けている。

だからこそこのコミュニティが必要だ。支え合いや共闘なんて言うと大仰だけれど、少なくとも筆者と、このコミュニティを築き上げた張本人である彼は、明確にセーフティネットを作るつもりでこのコミュニティに参加している。

彼はデザイン会社でディレクターとして働きながら、個人で写真の仕事をしている。仕事柄、前述したような多岐にわたる職種の人と関わることもあり、いろんなところから人を連れてきてはコミュニティの仲間たちに紹介する。まだ彼は上京して3年経ったばかりだけれど、渋谷を歩いているとしょっちゅう知り合いとすれ違うほど顔が広い。

筆者は2年ほど前に同業の友人を介して彼と知り合い、彼の開く飲み会によく顔を出すようになり、よくつるんで動くようになった。そういった日々の飲み会を通して彼がやりたいコミュニティづくりを理解し、リスペクトできたからだ。

彼は元々商社系の物流会社のサラリーマンで、はじめからいわゆるクリエイティブ系の仕事をしていたわけではない。名古屋出身で、中高と野球部でピッチャーを務め、地元でトップレベルの私立大を出て、地元が世界に誇る企業のグループ会社に勤めていた。人事課に配属され、早いうちに部下を抱え、上司からは内々にその後のポストについて打診を受けていた。"将来が約束されている"というやつだ。

筆者は学生時代に愛知県民の友人が多かったので理解が早かったけれど、愛知の人にとって彼が働く企業のプロップスは、県外の人間が思うよりさらに数段大きなものだ。名古屋人にとってあの企業のグループ会社で働くのは、有り体に言えばエリートコース、親孝行、合コンでモテる、そんな印象で語られることらしい。つまり彼は、地元で順風満帆を絵に描いたような人生を送ってきた。

しかし彼は、学生の頃からあった広告やデザインの分野への興味を捨てず、東京で定期開催される業界人の内輪イベントにカメラマンとして何年掛かりで足を運び続け、人間関係を構築してきた。そして満を持して3年前、そのイベントの繋がりで内定した会社に転職するため、大学卒業から26歳まで勤めた会社を辞めて上京。それまでとまったくの別業種であるデザイン会社でディレクターとして働く傍ら、写真も仕事にするようになった。

彼のことを"地元で積み上げてきたものをすべて捨ててきた"というストーリーで捉えている人は身内の中にもいる。でもそれは真逆の認識で、地元で積み上げてきたものこそが、今も彼という人間の美しさの根幹をなしている。そう、彼は今も東京の飲み屋で"人事をやっている"のだ。

彼は前職時代、千人超規模の会社で多くの社員と話して、その人の希望や思いを聞き、特性を見極め、相性のいい配置を見繕い、あの手この手を使って上層部に進言をする作業を日々行ってきた。今彼が飲み屋でやっているのもそれなのだ。たくさんの人と知り合って、各々の職能や得意分野を把握して、相性のよさそうな人同士を引き合わせる。協業することの多い職種の同世代が集まれば、近い業界ゆえにお互いの苦労やあるあるネタが理解し合えるし、情報交換ができたりお互いが作るものに刺激を受け合えたりもする。さらに仕事を一緒にできれば最高といった感じで、彼自身が出会いのハブになっている。

会社の仕事にデザイナーやイラストレーターの友人を起用したり、ライターや編集者の友人から写真の仕事の依頼を受けたりと、日々コミュニティの繋がりをフルに活かしながら働いている。そうしているうちに規模の大きな案件を指名されるようになったり、有名なアーティストの写真を撮る機会を得たりと、着実に彼の実績に繋がっているのだ。常に誰かしら周りの友人と一緒に仕事をしているので、彼が仕事で結果を残せば残すほど、巻き込んだ周りの人間も一緒にどんどんステージが上がっていく。

時折彼は冗談交じりに「俺は歩くマッチングアプリだから」と言う。それがあながち冗談ではないどころか、大いに本気であることを筆者は知っている。

実際に、彼が引き合わせた人同士が彼の関与しない案件で一緒に仕事をすることも常にあちこちで起こっている。それぞれの職能を活かしながら仕事を渡し合うことで、お互いの役割を認め、支え合っている。そしてみんな何かの形で彼に還元する機会を伺っている。

筆者自身、彼がしてくれたことに対して還元したいという気持ちは、働くモチベーションのうちけっこうな割合を占めている。彼が作ってくれた機会に見合うようなリターンを作ることは、筆者の働く理由の一つでもある。

周りの人を上げていくことが彼の業績に直結していた前職時代と違って、今はそれを評価する上司がいないのだけれど、元人事の性(さが)なのか、彼は自然と周りの人のためになる動きをしている。彼自身はあまり見返りを気にしていないものの、コミュニティの仲間が自然と「彼のために何かしたい」と動くので、結果的に彼の仕事にプラスになる。理想的な循環だ。こういった美しい循環の中に身を置けることがうれしいし、大変な時代を生きる上での一筋の希望の灯でもある。

これを読んでいるあなたの身の回りにも、もしかしたら出会いのハブになってコミュニティを回してくれている人がいるかもしれない。それに限らず、場を盛り上げるムードメーカーとか、場を締める説得力のある先輩など、知らず知らずのうちにそれぞれにそれぞれの役割があってコミュニティは脈動している。それぞれの役割を認識し合い、労い合っていけたら、今日のハイボールは昨日までよりずっといい酒になるはずだ。